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人生はアウト・オブ・コントロール

<「統合失調症のひろば」の原稿(案)。意見求む。 >

  働くってなんだろう。働かざるもの喰うべからず、働かなきゃダメみたいな社会を支配する価値観がボクらを日々追い詰める。働くことは苦しいこと、お給料をもらっているのだから我慢しなきゃだめ?好きなことをやっていちゃダメ?お金をたくさんもらえるほうがエライ?誰のために?何のために働くの?いろいろ考えはつきない。英語でも「働く」という言葉にはレイバー,ジョブ,ワーク, コーリングなどといろいろあるらしい。レイバーは強制労働、コーリングは神様に呼ばれたというニュアンスで、もがきながらもできれば生きている間に少しでも天職に近づきたいと思う。 

  さまざまなものの多様性が減少している時代、職の多様性も急激に減少している。機械化やグローバル化で、農林水産業などの第一次産業、ついで製造業などの第二次産業に従事する人がへり、海外に出ていってしまった。そして今や第三次産業だけで70%を占める。コミュニカティブでない人には辛い時代である。家族、親族や地域の人でやっているような身の丈にあった自営や小規模の会社が減った。そして地方都市はどこの町も同じようなイオンモールの間にセブンイレブンが点在する似た顔つきの町になりつつある。ネットを開けばアマゾンやグーグルはまるでボクの考えや趣味を知っているかのように次々と物欲を刺激して恐ろしくなる。そのバックヤードや配送に従事する人の顔は見えない。一見キレイな世界の裏側は簡単には見えないように隠されている。 頑張って勉強して借金までして大学に行ってよさそうな職場に就職しても、うかうかしていると生活の場から切り離され奴隷のような長時間労働を強いられかねない。株主利益を最大化することが目的にされれば、遠い未来のことなんか考えることもなく、まっとうな働き方なんてすぐにどこかに飛んでいってしまい非道な働かせ方がまかり通るようになる。国民はアンダーコントロールで、ブラック企業で人間の限界に挑戦するオリンピック?まるでブラックジョークだ。本当にこの道しかないのだろうか? 

  産業革命以後、機械を動かせるようになり、ICTも発展し人工知能がさまざまな人の仕事を代替してくれるようになった現在どうして少ない仕事のポストをあらそって、死ぬほど働かなければならないのか?何かがおかしい。仲間や家族と日々の生活を楽しんだり、じっくりと人を育てたり、いつどのように役に立つかわからないけど自分の興味のまま研究活動や、今の時代のだれにも理解されないかもしれないけど芸術活動などに思う存分皆いそしめる時代になったはずなのに。最後のサンクチュアリであった大学というところすら今やコミュニケーション力や即物的な成果をもとめられる。 

  私が勤務していた北アルプス医療センターあづみ病院のディケアでも就労支援プログラムというのがあり、「就労に向けて必要な病状の管理」みたいなテーマでのレクチャーを担当していたことがある。就労準備性を高めましょうという目的で、「コミュニケーション」、「働くこころがまえ」、「生活リズムを整えようとか」、「自分の調子に気付こう」とか、「だれに相談するか決めておこう」、みたいな内容でのレクチャーとディスカッションが中心のまあよくある内容だ。しかしこのような座学中心のステップアップ方式の就労支援ではなかなか上手く行かない印象であった。これは会社に就職するための職業訓練という発想だからだろうか?なにしろ参加者の状態や程度は様々だし、いろいろ出来ることはあってもハードルが高すぎて働ける場がないのだ。一方で就労支援をうたっている事業所も障害者を支援の対象者に追いやりあえて自立させずに、囲い込み、ビジネスとしてとらえているようななんだかなぁというところもある。地域密着でやっているとそういうところはなんとなく分かるが他に選択肢がなかったりする。 

  障害者就労支援業界では最近はIPS(Individual Placement and Support)モデルという方式が注目されている。まず本人の少しでも働いてみたい、こんなことをやってみたいという気持ちを大事にする。それをとにかく始めてみる。そのために必要なサポートがあとを追いかけていく。この子ども版の実践が「ぷれジョブ」活動で、若者版の実践が「静岡方式」とよばれているものに相当するのだろう。この方が天職に近づけそうな気がする。 そのためにはその人のことを理解した上で面倒をみてくれる人と連絡がとれるくらいの地域に広がるネットワークが大事である。どの街にも理解者やこのようなおせっかいな人がいる。見のいい人が町の何でも屋をつくり、障害支援の制度を利用して事業にしているところもふえてきた。見知った人間関係の中で、支援付きで試行錯誤する。試してみるだけで大成功。難しければ引き下がってもいいというような場だ。こういった場の開拓やつなぎを自分で直接やることもあるし、頼りにしている支援者にお願いすることもある。ピアの場で、他の当事者を元気にする役目をお願いすることもある。当事者からも支援者からも相談をうけ仲介するよろず相談所だ。別に医者がやらなくてもいいのかもしれないけど、ボクの大好きな青木省三先生も自分のやっていることは就労斡旋業だといっておられたから、まあダメではないのだろう。最近の言葉を借りれば社会的処方の一つだろう。 

 だいたい統合失調症の人はまじめな人が多い。過敏で空気を読みすぎるが、厳しい眼差しの中ではヘトヘトになってしまう。やっぱり働きたいと思っているが、自己理解をすすめ自分なりのペースを見つけて対処が上手になるまでには苦労を繰り返しがちだ。最低限のスキルを獲得したら、あとはあたたかいまなざしの中で、仲間を得て、役割をもつことができれば病状も安定することもよく経験する。ただ季節や天気も含め様々な要因で調子を崩しやすいし、無理はできない。このあたりが理解されにくく、精神障害者はわからないということになってしまう。通訳やコーチが必要だ。 あづみ病院では就労支援室というのをつくり、病院の食器洗浄、ついでユニフォームのクリーニング場を支援付きで働く場として提供している。さまざまな精神障害のことをよくわかっているスタッフも一緒に入り、いろいろ試してみることが出来る。これも病院の機能のひとつとしてすっかり定着した。ここを足場に仲間を得て、自信を、ついで人生を取り戻し社会参加の足がかりにしていく方も増えている。人が成長したり回復したりする現場に関わるのはこっちも元気になり成長することができる。その人にあった働き方をすることができ幸せ、支援をする人も仕事を得て幸せ。これぞ広い意味でのワークシェアリングだと思う。

 そもそも人生はアウト・オブ・コントロール。想定外の事態ばかりだ。ひとりでは生きられないのも芸のうち。自分や家族に何らかの障害がある人は、ただ生きているだけで存在役割を果たし、世界の多様性を担保しているという重要な仕事を担っている。自閉的な人は自閉的に、多動的なひとは多動的に、それぞれの表現方法をもって何らかの形でその体験を表現するだけでも十分立派である。さらに余力があり、猛烈なニーズがあれば、それで出来る事業、同じようなニーズのある人を助ける事業をそれぞれの身の丈にあわせて起業したりして行動役割を見つければいい。そんな人たちを日々、自分のできることでお手伝いする毎日が楽しい。

多様な親、多様な育ちを支えるために出来ること


長野県の子ども白書2017に執筆予定の原稿(案)です。ご意見よろしくおねがいします。

【育ちの臨床に関わるようになったわけ】

 昔から私はどうも世間離れしすぎていて生活者としての実感がもてないというコンプレックスがありました。しっかりと地域に根を張って生活している人たちに接したくて、農山村部での地域医療を、そしてリハビリテーション医療(障害の医療)をこころざしました。思うところがあって精神科に軸足を移し、有床総合病院の精神科という第一線の現場で、外来、訪問、病棟と昼夜休日を問わず働いてきました。あらゆる精神疾患と様々な人生が交差する場で地域医療の最後の砦であるという誇りをもった多職種チームで困難なケースに取り組むのは大変だけど、楽しい日々でした。そのうちに思春期や発達障害のケースを多く診るようになり、子どもを授かったのを機に子どものこころや育ちの支援について大学でも学ばせてもらっています。

【ボクらの産後クライシス】

 うちは夫婦とも医師の共働きですが子どもがなかなか授からず不妊治療をおこなってきました。治療中の負担も大きかったですが、先の見えない治療中、子どもがいる人といない人の分断を感じ、親戚や同僚、友人の子どもの話を聞くのも辛いと感じたこともありました。子どもを授かったことは喜びではありましたが、それまでと全く違う生活に突然放り込まれることになりました。小さな子どもは誰かが常に側でケアしなければならない存在で、周囲の大人に生活を変えることを要求します。これまでも家族のケアをしている人に関わることも多かったのですが、本当のところ育児や介護などケア責任を負う生活をイメージできてはいませんでした。どちらの実家も遠方で、寝不足で体力も削られ、仕事もまわらず家は修羅場となりました。遅ればせながら仕事の軽減を職場に求めるも上手くいかず、いったん退職することを決めました。そのころ同じような問題意識をもつ佐久医療センターの仲間が、アイナロハの渡邊大地さんを呼んで父親学級を開催しました。それに夫婦で参加しましたが、産後は夫婦のスレ違いが大きくなり危機となりやすい時期であり、産後の大変さ、夫婦の考え方、感じ方の違いを知り、対話を促すような機会は必須だと痛感しました。

 共働きであったため双方が仕事をセーブして家事と育児をシェアすることにし、妻の職場への本復帰にあたり、退職前にほぼ使ったことのなかった有給を使いきり慣らし保育の送迎をしました。思春期や発達障害中心の外来のみを継続して、大学で比較的自由のきく立場で勉強させてもらうことにしました。

【子どもや親にも厳しい社会】

その頃から不思議な事に診ていた患者さんたちが次々と子どもを授かり始めました。精神疾患をもちながらも結婚し、お薬も調整して何度かの妊娠で子どもを授かった女性がいました。能力はそれなりに高いものの疲れやすく無理はできず、不眠や対人関係のストレスで調子を崩しやすい方でした。本人は自分の病状もよく理解しており、周囲の支援者に頼るスタンスもありました。しかし例にもれず夫は長時間労働で、親も高齢で要介護状態といった状況で、本人と夫、支援者でも何度も話し合い、ヘルパーや訪問看護の導入など出産前から準備を重ねました。しかし周囲が「母親」に求めることはただでさえ多く、特にサポートの必要な産後でもフォーマルな支援は乏しい状態です。父親が育休を取ることができればまた違ったのかもしれませんが、結局、自宅での子育ては無理と判断され子どもは乳児院に保護されました。母も精神不調となり入院も必要となり、紆余曲折の末、面会と外泊を繰り返し、保育園を利用できるタイミングで子どもも家へもどることになりました。なんとか皆でささえていければと思っています。
 出産時期が遅くなると親世代も高齢となり介護を要する状態となる可能性も増えてきす。ただでさえ大変な子育てですから、ダブルケアや親や子どもに何らかの障害があるなどのケースはなおさら大変です。長時間の労働の必要なく生活ができ、男性もあたりまえに育休がとれる文化、出産直後に家族が育児に慣れていける施設やサポート体制、誰もが子育てや教育にお金の心配をしなくてもいい社会制度、そしてフィンランドのネウボラのように切れ目なく全ての子どもと家族に寄り添うフォーマルな支援と地域に様々なインフォーマルな支援がたくさん必要です。

【それぞれの育ちを見守りささえる】

 子どもは親とは違う人間であり、親の思うようには育たないものです。それぞれのペースやこだわりがあり、興味や能力を育んでいきます。大人は子どもが本来持っているものを最大限に発揮するための環境を用意すること以外大したことはできません。子どもにとって楽しく、安心でき、やっていることの意味がわかり、あなたは大切な人で生きている価値があるというメッセージがあふれる環境を整え、共に学び、楽しめばいいのだと思います。

 不登校も問題になっていますが、平均的な人向けに仮に用意された教育メニューがどうしても合わない子どももいます。「特別」と「普通」という2匹の魔物にとらわれると、苦しむことになります。同調圧力の強いこの国の学校では個性的な子は、いじめをうけたり、過剰適応して“がまんエネルギー”を使い果たしたりして学校にいけなくなります。障害特性に応じた合理的配慮も必須となり、特別支援教育も以前よりは整備されてきましたが日本で対象となるのは3%弱、これがアメリカだと10%、フィンランドでは30%だそうです。日本の教育の文化が変わるのにはまだまだ時間がかかりそうです。

 思春期には将来の自立に向けた試行錯誤が必要となり、一律の教育よりもだれもが支援をうけながらさまざまな体験を積めるような環境が重要です。自分の権利を守ることができ、他者の権利を侵害しさえしなければ、あとは得手に帆を揚げてナリワイを見つけて生きればよいのです。今ある仕事や組織が将来に渡って安泰とはとても言えません。案外、今後はスローで丁寧な暮らしが見直されるのではないかとも思います。

【医療に出来ること、出来ないこと】

 社会には多様な家族があり、多様な育ちがあります。本人の少数派の特性ゆえに居場所が見つけられず排除され苦労することもある一方、社会的弱者を包摂し救うのもまた文化と社会の多様性です。しかし様々な障害をもって生活することを他者が想像するのは難しいことです。それぞれの体験に耳をすまし、対話をつづける中で、仲間づくりをしたり、だれもが声をあげていける場をつくったりすることが必要でしょう。診察室にはさまざまな悩みをかかえた親子が訪れます。医療に出来ることはあまりないのですが、時にはお薬も使いますし、医学、心理、社会的知見を活かして皆が動きやすいように診立てて、家族や周囲の人との対話がつながるように支援します。心理的、情報的サポートだけでなく、実際的なサポートも圧倒的に足りません。よろず相談かつ自分のすべてを総動員しますが、自分が出来ることは助け、できないことは皆に相談して一緒に悩みます。専門家としてだけではなくときには枠を超えて隣人や友人として付き合わざるを得ないこともあります。

【子どもたちの未来のために】

 子どもの貧困や教育への投資を通じた社会的格差の是正の必要性を強く感じています。お金では幸福を買うことはできないかもしれませんが、不幸は減らすことが出来ます。みんなから集めたお金の使い道や、皆が気持ちよく生きていけるための社会のルールとは自分たちで考えよく話して決めたいものです。まずは生活から切り離された姿の見えない巨大なブラックボックスのシステムに自分たちの生活を委ねるのはやめ、身近な顔の見える関係から対話を重ねることからでしょうか。
 オープン、フラット、シェアが現代のキーワードだそうです。共感する仲間を増やし、様々な社会的課題に挑み、地域に必要な様々な社会共通資本(ソーシャル・キャピタル)を守り、作り、育て、真の意味で豊かな社会をつくっていきたいものです。

精神科は患者の医師への依存性が高い?

いやはや、なんとも・・という事件。


薬物容疑の医師再雇用 「代わりいない」苦渋の選択 北九州の療育センター 警視庁が書類送検


北九州市と同市福祉事業団は2日、市立総合療育センターの30代男性精神科医が、東京都内で危険ドラッグを所持したとして医薬品医療機器法違反の疑いで、警視庁から東京地検に書類送検されたと発表した。医師は1月30日に依願退職したが、センターを運営する同事業団は「代わりの医師がいない」として同31日付で臨時職員に再雇用。3月末まで診察を続ける。

 同事業団によると、医師は昨年12月10日、東京都内で警察官の職務質問を受けた際、危険ドラッグの「ラッシュ」を所持していたことが発覚。1月18日付で書類送検された。尿検査は陰性で同事業団に「知人にもらった。自分で使うつもりだった」と話したという。

 医師は2015年4月から勤務し、発達障害やうつ病の中学、高校生の外来患者など約450人を担当。センターの精神科医は1人だけで、思春期以降の子どもを診る精神科医は全国的にも不足しており、同事業団は臨時雇用の間に代わりの医師や患者の引き継ぎ先を探す。罰金刑以上が確定すれば厚生労働省の「医道審議会」で医師免許停止など行政処分の対象になるが、現時点で診察に問題はないという。

 同事業団は「精神科は医師への依存性が高く、急にいなくなれば、患者が自殺や自傷行為を起こす可能性もある。苦渋の選択だ」と説明。発達障害の子どもがいる福岡市の女性(52)は「医師として正しい判断ができるのか疑問。診てもらいたくないと思う親も多いのでは」と話した。

=2017/02/03付 西日本新聞朝刊=



確かに思春期以降の子どもをちゃんと診ることのできる精神科医は不足しているが・・。 
かつて指導医から「自分に依存させ、自分がいなくなったら自殺するような患者をつくってはいけない。それは下手な治療もいいところ」と教わった。

 これは組織としても個人としてもマズイ治療。
医師一人に依存させ続ける状態を作ってしまってはダメでしょう。
もしもそういう患者がいたとしてもせいぜいクライシス状態の数人のはず。 

多問題で大変なケースほど多職種、多職域で抱え、医師は治療チームの一部としてだんだん引き下がっていくのが理想です。 

容疑の段階ではあるが、本人への治療が必要な状態なのか?どうして危険ドラッグの保持していたのか?好奇心からか新奇追求性からか、危険ドラッグにハマる患者の体験を知りたかったのか?
職務質問を受けたということはみるからに怪しい言動だったのか・・・。

 年度末まで勤務するということは、ひたすら引き継ぎのための申し送りと、患者への説明だろうが、こうなった以上は主治医の弱さと回復を患者にも見せることで治療的になるような関わりとするしかないだろう。

「高校で投票でスマホ利用のルールぎめ」へ感じた違和感

地元の高校の取り組み。興味深い記事があった。
今度の頼まれている教員むけのレクチャーのディスカッションのネタにしようかな・・・。

スマホ利用ルール 自分たちで決める 穂高商業高で投票 (信濃毎日新聞朝刊(2月3日))


穂高商業高校(安曇野市)1年生約150人が2日、校内でのスマートフォンの扱いを巡る学年独自のルールについて、進級する4月以降続けるかどうかを決める「模擬住民投票」に臨んだ。学校にいる時はスマホを廊下のロッカーに入れて保管するという現行ルールに、生徒から異論が相次いだことから、学校側が主権者教育を兼ねて実施。結果は9日に生徒へ伝えられる。

 「スマホがあると人と話すことが少なくなり、コミュニケーション能力が下がる」「いつ使って良いか自分で判断する力をつけるためにも、持っていた方が良い」―。まず生徒代表の6人が抽選で、現行ルールに賛成と反対の立場に分かれて討論した。聞いていた生徒たちは自分の考えをまとめ、それぞれ1票を投じた。

 同校は「スマホばかりを気にしないで、友達との交流を深めてほしい」として本年度の1年生から、校則とは別にスマホの校内での扱いをルール化。登校後は廊下にあるロッカーに入れ、授業間の休み時間は廊下のみで、昼休みは教室でも使えるようにしている。2、3年生は授業時はかばんにしまうことになっている。

 ところが昨年12月ごろから、「廊下の寒さで、スマホの電池がすぐに減る」などと生徒から不満が続出した。学校側はルールの是非を投票で問うことにした。背景には昨年3月、体育祭開催の是非について当時の1、2年生が投票した経緯もあった。

 1年生の横内陸さん(16)は「自分の意見はあるが、投票結果が出たら、学年で考えて決めたことなのでしっかり従いたい」。同校の生徒会活動を担当する畑山路知子(みちこ)教諭(33)は「ルールがあるからというだけで従うのではなく、その意味を考えるきっかけになってほしい」と話していた。

 新ルールは投票結果を踏まえ、職員会を経て最終的に決まるという。




いろんなルールを話し合って決めること自体は良いと思うんだけどね。
学校が一方的に決めて押し付けるよりは・・。
ただなんだか違和感を感じた。

日本的息苦しさを象徴しているものの正体ような気がする。

それは民主主義的手続きのふりをして学校側や先生の価値観や管理、やりやすさを間接的に押し付けているのということが裏に透けて見えるような感じがするからか・・。

実際に高校生の間でどのような議論が行われたのかに興味があります・・。
自分みたいなゼロベース思考の発達特性の生徒がいたらとことん反発しそう。先生は嫌だろうな・・。
もっとも、こんなことされたらその高校は嫌になって辞めちゃうかも。
ルール撤廃というのが学生の結論だったら学校側はそれを最大限尊重するのだろうか?

「ルールの意味を考えてほしい」とか「自分の意見はあるが......学年で考えて決めたことなのだからしっかり従いたい」などという生徒の声が紹介されているが、そもそもルールとは何かトラブルが起こったときの目安だったり、みんなが気持ちよく過ごせるためのものであるはず。

ルール策定や改定の手続きも定まっていなかったり、罰則規定も不明だったり、最終的には職員会を経て決まるなどもおかしい。なんだか今の日本の政治状況とソックリです。

そもそもスマホの利用は他の生徒の学ぶ権利を侵害してないのであれば、別に全体への一律のルールで決めるようなことじゃないのではとも思う。

休み時間に同級生と群れるのが苦痛の人もいるだろうし、コミュニケーションやノートテイクにICTによるアシストが必要な人もいるだろう。スマホ利用の可否は個人ごと授業ごとで個別に決めれば良い話だと思う。

中学などでも学習障害の子にタブレット端末やPCを教室に持ち込むのに許可証や診断書が必要だったりするけど、どうして一律の教育やルールがデフォルトなのだろうか?

個人的には、こういう学習規律はせめて義務教育の間くらいまでにしてほしいと思う。もちろん合理的配慮の考え方は徹底した上で・・。
北欧などでは学習規律があるのは小学低学年までらしい・・。
北欧の小学生レベルということだろうか?

大学だとどうなのだろう。
授業を聞かず、スマホをかまっていて先生が当惑したり怒り出すみたいなのことも多いのだろうか?
授業が成り立たなくなるという言い分も分かるが、それは授業の魅力がスマホのコンテンツに負けているということ。
スマホをかまっていられないくらいの、あるいはスマホをフル活用したアクティブラーニングにすればよいのだ・・。

この取り組みを素晴らしい民主主義の教育のように誇っているところが日本での民主主義の浸透の低さを物語っているように私には思える。

主権者教育や法律を専門とする人の意見も聞いてみたい。
全国の学校でのスマホ利用に関するルール、またルールをきめるルールはどうなっているのだろうか?
世界的にはどうなのだろう?
主権者教育関係の文献をあさってみるかな・・。


P.S
1年以内くらいで『民主主義と発達障害』みたいな内容で本を書いてみたい
(まずKindle出版。その後、できたら新書で)

学校現場でも使えるスキルに焦点をあてたおすすめ本

以下、学校現場向けにスキルに焦点をあてた内容のオススメの参考書籍をあげておきます。
実戦的で具体的なスキルがたくさん載っていますので常備しておき、類似する事例への対応を参照すると参考になるとおもいます。
発達障害の思春期や青年への具体的な関わりに関しては、小栗 正幸先生の本がオススメです。
少年院等で心理職をされていた著者で発達障害の子どもたちへの関わりが具体的ですぐに役に立ちます。



「発達障害児の思春期と二次障害予防のシナリオ」
「青年期の発達課題と支援のシナリオ」
「ファンタジーマネジメント “生きづらさ”を和らげる対話術」
など

また応用行動分析のカリスマ、奥田健次氏の本も読んでおくと対応と発想がかわります。



「メリットの法則」
「世界に1つだけの子育ての教科書―子育ての失敗を100%取り戻す方法」
「背景、アスペルガー先生」
など


自傷行為や自殺に関しては依存症や自殺研究の第一人者である松本俊彦先生の本が具体的でオススメです。



「自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント」
「自傷行為の理解と援助」
など。

最後にいじめに関しては精神科の最後の巨人、中井久夫先生の論文「いじめの社会学」を子供でも読めるようにリライトした本がすごくいいです。
読んでおくといじめへの対応が変わります。



「いじめのある世界に生きる君たちへ - いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉」

学校教育にSSTを

支援会議への参加に合わせて中学校の特別支援学級でSST(ライフスキルトレーニングと称していた)を中心とした取り組みをしている学級を見学させていただいた。1〜3年の支援級の生徒が中心で全校からあつまり1年を通じてSSTの時間がとられている。オープンダイアローグや、べてるの家にも通じるような最先端の取り組み。

かなりチャレンジングな発達特性の児童の育ちを支えているが、学校という枠組みを利用しながらも、定型発達児童の年齢相応の達成を求めるようなことはしない。一方的に命令や強制したり叱責することなく、本人の体験を共有する対話と提案と合意を重視している。常に肯定的評価ができるような関わりをおこない強みや出来たところに注目。授業や集団にも最初は5分でも参加できれば十分とするなどスモールステップをきざむ。

スキルに焦点をあてモデリングとロールプレイで3年間を通じて繰り返し練習、特に問題がおきたときはわからないところをわからないままにせず、仲間で徹底的に対話をおこない、スキルの練習につなげる。実際に生徒の間で起きたトラブルをもとに、先生たちも照れたり、動じたりすることなくロールプレイを行っていた。

教室の黒板には「挨拶スキル、参加スキル・・感情コントロールスキル・・・・話し合いスキル、男女関係づくりスキル」などの基本スキルのボードが常に張られている。

また授業やグループ以外の時間では見守りがありながらも自由に使える部屋があり、そこでは自閉性や多動性、衝動性も保証されており、みんなでゲームをしたり、個別のブースで勉強したり昼寝するのもOK。発散あるいはクールダウンしてもらう。

一方で個別に家族との関係や進路などさまざまな相談に関してもとても丁寧に関わっていた。
非定型発達の児童への発達支援として、いや定型発達のこどもたちにとっても道徳教育などよりよほど有用なユニバーサルな教育方法ではないだろうか?

ただ中心となって実践されている先生も(大学病院にも内地留学されしばらく診療やSSTなども勉強していかれた先生)、ひろく教育現場にも広まってほしいが、なかなか難しいのだと嘆いていた。
医療として出来る形でアシストしていきたい。

子ども発達支援。政策と草の根、それぞれの動き

東京で発達障害支援の調査研究の会議に書記として参加。

全国の医療や行政の中で発達支援の仕組みづくりに関わってきた人たちが、行政、教育、医療の現状をマクロ的に現状把握し、良い実践は属人的なものにせず、システムとして成り立たせていきたいという視点で研究をしている。大都市や地方都市、小規模町村の特性や支援内容のあり方、連携や質の担保などが話題になった。こういった研究成果が厚生労働省の政策のベースになるらしい。厚生労働省からも参加があり内部の様子を聞くことが出来た。

そして『長野県子ども白書』の執筆者会議にも執筆者として一部参加。
長野県の子どもにかかわるさまざまな現場(医療、教育、外国人の子ども、貧困、社会的養護、子育て支援など・・。)で実践しているアツイ人たちが参加。目の前の現場にニーズがあるが応えられるものがなければ自分たちで作り、あらゆるところと協業するスタンスで皆思いがほとばしる。白書は県内のいろんな現場の実践を共有し、ネットワークを作るのが目的。県の政策などへの提言も積極的におこなっている。

2つの会議の雰囲気の違いが面白かった。

精神医療、認知症など高齢者、障害者医療の施策や実践も知っていながら、自身の育児も含めた現場、小学生〜成人までの発達障害の方の教育・就労・生活支援を中心に診療するというフィールドをもち、マクロ的な視点で子ども支援や発達支援も概観できるという実に面白い立場にいさせてもらっているのだと再確認。

自分のできる実践をしつつ何らかの形にしていきたい。

「この世界の片隅に」つまらない?

観ておくべきと複数のひとからすすめられていた「この世界の片隅に」やっとみることができました。

 あったかさと、怒りと、そして愛しさと、切なさと、心強さとが同時に湧いてくるような不思議な映画でした。おわったあと映画館の空気(その時代の空気?)を共有していた観客客はしばらくの間だれも言葉を発しませんでした。

 全編、背景もほのぼの、人物の絵もかわいらしく、登場する人たちは良い人で、あたたかいトーンではあるのですが、豊かな戦前の生活から、だんだん物がなくなり、食事も貧しくなり、男性が戦地に取られ、そのうち空襲が始まり、大切な人が次々とあっけなくいなくなる戦時下の日常の空気が淡々かかれていて逆に恐ろしいほどのリアリティがありました。

ほんわかおっとり天然系の自閉スペクトラムであろう主人公のすずさん(能年玲奈=のん)の声がぴったりあっていてすばらしい。ふだん普段ぽーっとしているすずが玉音放送のあと怒りをぶちまけて泣いていたシーン。いつもいつも強がっていて意地悪に見えた義姉さんの本音・・。淡い恋愛の描写など、心を揺さぶられ自然に涙がポロポロ湧いてくるシーンが次々と続きます。

 その時期に広島に住んでいて間一髪で難をのがれた祖母、原爆のあとしばらく医療救助に入ったという医学生だった祖父も、戦争のことはあまり語ることはなかったけど、生きているときにもっと話を聞いておけばよかったな。

 昨年ヒットした「シン・ゴジラ」も「君の名は。」も東日本大震災をモチーフにしていますが、原発事故はともかく震災は自然災害でだれの責任でもありません。しかし「この世界の片隅に」に描かれているのはつい70年ちょっとまえの現実にあった戦争であり防げたかもしれない悲劇です。なぜこんな戦争に突き進んでしまったのか改めてきちんと考えるべきですね。

 紛れもない名作だと思いますが、あまり地上波のTVなどでプロモーションがなされないのは現政権にとって都合が悪いためでしょうか?それでも口コミの評判ジワジワと見る人がふえ100万人を突破したようです。(めざせロングラン上映、超えろ「君の名は。」)

 今だけ金だけ自分だけ、人々のいのちや暮らしよりお国の方が大切な日本バ会議の連中やアレ首相たちはこの映画は見たのでしょうかね?見たのであれば是非感想をきいてみたいものです。
 まだ見ていないこの世界の人は映画館に足を運んで見てほしいです。

思春期の諸問題への対応(学校編)

高校の先生を対象とした勉強会の事例への対応の質問(一部改変)に答えてみました。まず大切なことはジャッジメントよりアセスメント。「Why?」(原因追求志向)より「How?」(問題解決志向)です。

①男女交際に依存しすぎる女子生徒。関係が破たんすると欠席、リストカット、自殺願望のネットやラインへの書き込み、家出などが頻回。

周囲に甘えるが、うまく対人関係の距離がとれず、見捨てられ不安が強く、周囲の人に過度に期待して助けを求め巻き込みますが、じきに相手も応えきれなくなり、やっぱりダメだったという思いを強化してしまいます。安全が確保され、安心感の得られる場所で、ていねいに関われれば年単位で落ち着いてくるでしょうが支援者は決してひとりで抱えないことが大切です。本人に困り感があればスキルに焦点をあてたカウンセリングも有効でしょう。(過去に原因をもとめるよりは、今に焦点をあて成功体験をつんでいく方がいいです。)

②すぐに「死にたい」と訴え、リストカットもしてしまう。

これも①と同様の要素もあるでしょうが、「死にたいくらい辛い」が上手くSOSがだせず助けを得られないのだと思います。どこでもだれでもよいのですが、安心して愚痴をいったり、SOSを出せる場所がまず必要です。あるいは④のように周囲にインパクトを与える言葉として選んでいるということも考えられます。まず相談してくれたことを評価し、その上で自傷行為から愚痴、愚痴から必要な支援や、コーピングスキルの獲得につなぎましょう。

③心を閉ざし、自己の思いを全く発しない。

これまでの経験から周囲の人に対して諦めてしまった状態でしょうか?派手な目立つ問題行動こそないですが、難しいパターンです。少なくともどこかの場につながっているようであればきっかけが必ずありますから、ひだまりのような環境を提供しつつ、本人が語ってくれるタイミングを逃さないようにこちらも余裕をもって関わることでしょうか。そのうち②や①のように変化してくることも考えられます。

④教室をはじめ所かまわず卑猥なことを言う男子生徒。何度注意しても繰り返す

ASDがベースにありそうです。あまり意味をわかっておらず、周囲が面白い反応がでるからその行動が強化されているのかもしれません。こうした言動は定型発達では小学生くらいまでで卒業しますが、発達障害があると高校生以降でもありえます。そのような言動は望ましくないということはあらかじめ伝えておき、他の話題などでは楽しく話していても、卑猥発言があれば、周囲は「ハァ?」みたいなつまらなそうな顔、嫌そうな顔をしてあっさり流すという対応を統一してするのがよいでしょう。ただ子ども同士なら難しく、いじめの対象になってしまうかもしれません。

⑤授業中落ち着いて座っていられない

ADHDがベースにあるのかもしれません。授業が理解できていないか、じっと座っている授業スタイルがそもそも向いていないのではないでしょうか。本人にその授業で学びたい気持ちがあるのなら、自助具としてコンサータやストラテラも多少は有効かもしれませんが・・。座学なら一番前の席に座らせたり、バランスボールやクッションなどを使ったり、プリントを配る役目をあたえたり、インタラクティブなアクティブラーニングにしたりといった工夫はするとして、出来れば体験型、体得型のほうが本人も伸びるとおもいます。本人に合わない環境で無理をさせると②、③、④、⑥のように問題にみえる行動がでてくるかもしれません。

⑥自己流の正義感から暴力や暴言を繰り返してしまう

自分が強すぎて周りが見えなくなるASDがベースにありそうです。ASDの人は言行一致した人を信頼します。きちんとした対話になるのであれば自己流の正義感や考えを主張することは自由であり尊重されるべきですが、それを他者が受け入れるかどうかは別の話です。また他者の権利を侵害する暴言や暴力に関しては絶対許されないことだと宣言しておいた上で、周囲は統一した関わりをしましょう。六法全書を活用したり、警察の生活安全課などにも相談しておき一芝居売ってもらうことも有効でしょう。本人の言動に対して対応する周りの人は(「みんな」ではなく「私は」)どう考えているか、感じているかということは繰り返しフィードバックをしましょう。

北欧諸国の教育と若者支援

松本のMウイングで北欧の教育や若者支援を中心に盛りだくさんの報告会を聞いてきました。
スピーカーは山﨑明美さん、吉武千尋さん、両角達平さん、中原晴美さん。

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スウェーデンのユースセンター、ユースクリニックの話では家庭や学校以外に仲間と活動できる場や性のことなどをフレンドリーに相談できる場があるのはいいなあと思いました。
北欧諸国では税金は高いけど、公正さとコンプライアンスが重視されオンブズマン制度や民主主義が機能しており、社会保障は手厚い。親の経済力に影響されず自らの力で進路を選択、決定できる。日本も人しか資源がないのだからこれこそが政治のなすべきことだと思います。
学力世界トップクラスのフィンランドの教育は個が重視され、一人ひとり違うことが前提。日本のように「あなたはどんな人でもかまわないけど、ここでそろえてね」というような同調圧力はありません。子どものころからオープンでフラットな対話をベースに物事をすすめ、積極的に立ち止まるギャップイヤー(就学前、中学3年での留年)もあり、自分で進路を決めていく。小学3年生から全てが総合学習のようなアクティブラーニング。職業体験も中2で2ヶ月、中3で3ヶ月あり、50%は職業学校、50%は普通高校へ進学するとのこと。学校は早く終わり先生も余裕があり、副業OKで議員(ボランティアです)やカフェをやったりするとのこと。
日本でも帰国子女や外国人を多く受け入れている学校などで多様性を重視した教育をやっているところもあるけど、まだまだ同調圧力が強くて苦しい思いをしている子も多そう。だいたい家族の中でもそうだからなぁ(うちはみんな○○高校とか、医師とか・・)
精神医療の立場から発達支援、不登校支援等に関わっていますが、日本と北欧とのベースが違いすぎてクラクラします。
やれそうなことはいっぱいあるな・・。

第7回不登校を考える県民のつどい

今年も第7回不登校を考える県民のつどいに参加させていただきました。昨年に引き続き白樺湖近くの望月少年自然の家という山奥の施設を借り切って開催・・。

不登校つどい


不登校経験者や不登校の親経験者、支援者が中心となって組織して不登校の当事者や親に呼びかけて開催する手作りの集まりで、毎年アットホームな雰囲気。ボランティアもいて子どもたちがゲームやスポーツ、トーク、思い思いに過ごせるみんなの広場。自らも不登校経験者の不登校新聞の石井志昂さんをお招きしての講演+グループトーク&発表。ファシリテートもとてもよかったです(※)。その後、グループに分かれての小さな集いでは、今年も医療との関わり&発達障害についてのセッションのアドバイザーとして参加させていただきました。10人くらいのグループだったので模造紙を机に張ってそこに書きながら説明したりしました。いろいろな気づきと元気をいただきました。夜は交流会やキャンプファイヤーなどもして語り明かすようですが、今年も真っ暗な中日帰り参加でした。メンターやピアからさんざんエンパワーメントされるので不登校でもこの場にたどり着けた親子はもう大丈夫だよねと思います。

不登校に関わることのある医療や教育の関係者もこういう会にくれば、学校信仰にとらわれず楽しい不登校生活があることにも気づき、マズイ対応も減り、本当に世界が広がるのにモッタイナイな〜と思いますが、誘えないのは自分の力不足です。

長野不登校を考える県民の会」も手弁当のあつまりで予算的ににも厳しいとのことですが、「つどい」もあと3年、10回までは開催する予定とのことで、県内各地でもプレイベントとしての勉強会なども開催していますので関心を持っていただければと思います。

※ 6人くらいでグループをつくり、グループメンバー(バディ(運命の人)という呼んでいました)がお題に対する答を複数ポストイットに書いて出し合い、グループで一番多かった意見、意外だった意見を代表者に発表してもらうだけというKJ法よりもさらにシンプルなやり方でしたが盛り上がりました。

誰のため、何のための政府?


わが国でおきたヘイトクライムである障害者大量殺人には未だに首相としての言及はありません。社会保障の切り捨ては、国家の役に立たない、活躍できない、輝けない人は死ねという明確なメッセージと思えます。

精神病者の暴発として無視する気なのかもしれませんが、少なくとも犯人は首相に対話をもとめていました。
フクシマ事故前の国会においても吉井英勝議員に的確に指摘されていた全電源喪失のリスクに手をうたなかったことが原発事故へとつながり美しい日本の国土を失いました。

外交においても自分の想いだけで、いたづらに周辺諸国との緊張を高めておきながら、危機管理をうたうのは順番が逆ではないでしょうか。先人が苦労して築いてきた日本への信頼を破壊してほしくはありません。
弱者を切り捨て、子どもの貧困や教育にお金を回さず、未来を潰して、未来に夢と希望を抱くことができる、真っ当な社会を破壊してきたのは誰なのでしょう。自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値を軽視・無視しているのは誰なのでしょう。

格差の是正や所得の再分配をせずに、自己責任論(政府の責任放棄)と経済(一部の人の金儲け)最優先という方針で未知の領域に果敢に挑戦して行く先には何があるのか、考えるだに恐ろしいことです。
私は「強い」「世界一の」「世界の中心で輝く」日本なんて望んでません。軍備増強、東京オリンピック、中央リニア、原発よりも優先すべきことはいっぱいあります。

構造改革をおこない、世界中から投資や人材をひきつける、世界一ビジネスしやすい日本にして、強い経済を実現し、経済全体のパイを拡大させなければ、一般の国民が普通に平和に生活して、結婚して子育てするような生活すらおくれないものなのでしょうか?

順番がまったく逆のように思います。みんなから「吸い上げた」税金の使いみちを考えて、頑張りたくても頑張れない状態になった人でも生きていける、まずは普通の人が普通に働いて生活できる国をつくるのが政府の仕事なのではないでしょうか。国民の生活をまもってこその国家です。

総理。
あなたは一体何を代表して、何のためにその座にいるのですか?

精神OT、身障OT

人と環境の双方にアプローチでき医療、福祉、教育のどこにでも入っていける職種が作業療法士(OT)である。(本当は職種はとわない。コストの問題はともかく医師が一番動こうと思えば動けるのであるが・・。)その作業療法士のほとんどが当初より精神科OTと身障のOTとして別々のキャリアで別れてしまうことを以前よりもったいなく残念におもっていた。
なぜかと思っていたら、診療報酬上精神科OTは個別のOTでの算定ができないということが原因の一つとしてあるらしい。場をオーガナイズして集団でみていくのも重要だが、精神科でも療育や心理教育などでも個別のOTのニーズも高まってきている。つくづくリハビリの診療報酬は疑問に思うことが多い。
オーバーラップする領域である認知症や発達障害、高次脳機能障害をとっかかりに精神OTと身障OTが統合されないものだろうか?
そして精神科とリハビリーテーション科が「障害とリカバリー」というくくりで統合される日を夢見てしまうのである。

【日曜討論】神奈川県立津久井やまゆり園での事件について

こ本日のNHKの日曜討論は相模原の大量殺人事件がテーマだった。

この事件については既に様々な議論がなされているが、番組では政権に忖度したのか障害者の置かれている状況や、介護職の労働環境、容疑者の思想の背景にあるものには慎重に踏み込ませないように見えた。そのため植松聖容疑者の病理のプロファイリングもどきや、措置入院後の対応について中心の浅い残念な内容であった。
容疑者は排除され孤立していたというが、偏った思想は一人では生まれ育たない。(いやたとえ生まれてもそれこそ誰も理解できないような荒唐無稽な話になるだろう)
ネトウヨをはじめ元東京都知事やあの憲法改正草案をつくった自民党の中にも同じような思想の人たち、世間にも彼に共感する人もいて彼の思考の中では決して孤立していなかったと思う。
ただ他に対話する相手や表現方法をもたず、さまざまな歯止めをとび超えて実行に至ってしまっただけでむしろヒーローのような気持ちで陶酔しているのではないか?

これまでの報道でも彼の生い立ちや境遇、現場となった施設にはどういう障害者がいて職員はどういう仕事をしている施設なのか、殺された人たちはどのような人生をおくってきたどのような人たちなのかという情報がぜんぜん入ってこない。
他の事件ではマスコミは頼まれてもいないのに悲惨な事件の被害者のプライバシーは丸裸にするのにね・・。
きくところによると津久井やまゆり園は夜勤でも時給905円の最低賃金で14時間連続勤務という過酷な労働環境であったようだ。

彼自身の素因もあるだろうが、じっくり一人ひとりの被介護者とコミュニケーションできるような時間も余裕も研修の機会ももてないような職場環境だったら、障害者は人間というよりモノと思えてくるのも当然だろう。
人間は弱いものであるから閉じた世界の中で追いつめられると、弱者に対する差別や虐待が必ずおこる。
この事件は児童や高齢者、障害者の虐待の延長線上にあり、その先にはT4作戦やホロコーストがあるのだと思う。
必要なのはオープンな対話だろう。植松氏が参議院議長に手紙を送った(対話をしようとした)が、政府は対話をしようとせず措置入院という形で応えたのみであった。そして彼は別の表現方法をとるに至った。

是非、植松聖容疑者ご本人にも出演していただいてオープンダイアログ的に本人に出て対話してもらいたいと思う。できたら彼の手紙の宛先であった衆議院議長、それから同様の言動があった石原慎太郎氏、安倍晋三氏、三宅洋平的なラブ&ピース系の人など多様な人とも対話をしてもらいたい。また家族の代表はいたが、知的障害の代表もいなかったのも片手落ちだ。(本当なら国会でこそ、多様な人をあつめてこういう議論をすべきだ。)

土井隆義氏という社会学者が「監視よりは関心を。異質な他者と出会ったことがないとよくわからない。関係を閉じるのではなく開いていくこと。境界のむこうにいつ自分が行くかわならないとなると常に不安。境界のない社会をつくっていかないといけない。」というまっとうな意見を述べていたのが唯一の救いであった。

全ての子どもに特別支援教育を


夜回り先生(水谷修)のブログ記事について・・。

障がい児「カルテ」の報道について

”子どもたちの一生に関わるこの「カルテ」、書かないでください。こんなものがなくても、必要な児童生徒に対しては、次の学校が決まったときに、口頭で引き継ぐことは出来ますし、今までもそうして、子どもたちを守ってきたはずです。”

うーん。
これってアメリカなどの個別教育計画にならってのことですよね。
全ての子どもに対して個別に必要な支援をして教育の権利を守るという考えになれば、差別という話にはならないと思うのですが・・。
差別的だから差別と思えてしまうのかなぁ・・。
教育の世界と医療や福祉の世界のスタンスの違いでしょうか?
素人の教師に一生に関わる障害があるかないかを判断させるのが不安といいますが、一生に関わるからこそサポートが必要なんです。
教員がプロになれば良いのだと思いますが・・。ただ未来を担う子ども若者の育ちに関する、社会の関心も、予算も圧倒的に少ない中で、教師だけにそれを担うのは酷でしょう。

障害というのは支援の必要性で定義されるから、スペシャルなニーズに対してサポートをきちんと受ける権利は保証され、その支援の連続性が担保できるような方策は公の責任としてちゃんと取るべきだと思います・・。
もちろん全ての教員がきちんと理解とスキルがあり引き継ぎがきちんとなされれば良いのでしょうが、学校や事業所ごと、医療機関ごとで支援スキルのバラつきが大きい中で、情報をまとめておくことは必要でしょう。
それが教育現場のレベルアップや文化をつくることにもつながると思いますよ。
(ただ私もカルテという言い方は違和感があります。医療モデルで上から目線、プロブレムオリエンテッドで、秘密、権力、独占な感じです。主体はあくまで当事者におくべきです。)

現状の差別的な価値観の政府の元で公的機関が個人情報を集約することに抵抗がある人もいるだろうから、現状では本人、養育者の側でサポートブック、育児ファイル、ポートフォリオみたいな形で専門家がサポートしながら情報を集約化しているわけですが・・。

医療側もなかなかちゃんとアセスメントや伴走、教育現場との協業ができてはいないので、それは我々の課題ですね。

昨今の認知症治療薬について


認知症は人生の戻り道の障害・・(障害は支援の必要性で定義されます)
発達障害の逆のいわば「解体障害」だとおもっています。

「解体アンバランス症候群」ですね。
そして本人の体験からすると「慢性混乱症」です。
認知症ケアは緩和ケアでもあるともいえます。

脳の特定の部分のみ先行して解体していくアンバランスさが辛いのです。
ですので認知症治療薬はバランスをとるための自助具の一つとしてとらえるのがよいかとおもいます。
それももちろん十分なケアやサポートがあってのことですが・・。

昔の認知症に効くという触れ込みの薬(ホパテとかアバンとか)は厳密に再検証すると全く効果がなかったそうです。
一方、アリセプトに代表される今の薬は特に比較的若い人、ギリギリ一人暮らしをしている人などには使わなければもったいないというくらいの薬にはなっていると思います・・。
ただイライラしている状態に脳を冴えさせる薬(アリセプトなど)をつかうとカリカリしてよけい辛いことになります。
使い方には注意が必要です。
メーカーの誘導のように全例にアリメマなんて破壊的なことはやめましょう。
あわないメガネを無理やりかけさすみたいなことになるから・・。
コウノメソッドのコンセプトには賛成できます。

個人的には認知症治療薬は認知症とわかってから遺言や成年後見人を準備したり、介護保険サービスなどのさまざまなサポートが入るまでのリリーフ、時間かせぎのイメージです。

また超高齢者には特に希望があれば使うというくらいのスタンスです。
なぜなら身体面などの衰えとバランスが取れているから・・。
いたづらにバランスを壊すとよけい苦しめることになりかねません。

やめどきに関しては議論されることは少ないですが施設に入所したり(このあたりの老人保健施設ではあっさり切られてしまいます)ベッド上ADLになったときでしょうか。

あくまで個人的見解ですが・・。

(参考)
ここが知りたい! 高齢者診療のエビデンス [第1回]認知症治療薬,どう使う? 関口 健二

家族会レジュメ

統合失調症とは「思春期以降に発症し、自明性の喪失、自我障害、幻聴をはじめとする異常体験、(結果としての二次的な妄想も)、認知障害を主症状とし、ストレスがかかると思考や行動がまとまらなくなる疾患。ドパミン遮断作用を主作用とした抗精神病薬に一定の効果(症状の軽減、再発の予防)がみこめる」症候群である。体調管理や周囲の人とうまく波長を合わせることが苦手となり、さまざまな生活障害や関係性の障害を生じる。孤立や不安、対人関係のストレスやささいなライフイベントで症状が悪化する。

アナロジーとしての他の疾患
・ 戦場から戻ってきた兵士(異常体験の例え)
・ 因幡の白うさぎ(過敏性の例え)
・ 糖尿病 (素因+環境因。生活習慣)
・ 身体障害(障害としての例え)
 
丸投げから自律へ。(たとえ病気や障害があっても人生を取り戻し、自分なりに生きていけること=リカバリー)
以下のような関わりをバランスよく行うことが必要。

薬物療法、特に治療抵抗性統合失調症治療薬クロザピンについて
・ ドパミン遮断作用以外の作用がある。(めざめ現象)
・ 重大な副作用ありモニタリングサービスを利用した厳密に使用。
  ・ 症状を抑えるだけではなく、回復しやすい脳内の環境をつくる。
オープンダイアログ(開かれた対話)について
  ・ モノローグ→ダイアログ。対等な関係での対話の継続を目的とする
・ 精神的危機が生じた早期からの関係性の維持、修復を目指す
・ 治癒や回復はその結果
社会スキル療法(ソーシャルスキルトレーニング)SSTについて
・ ストレスに対処するスキルを身につける
・ レジリエンス(しなかやさ)の向上
生活支援(包括型地域支援プログラム(ACT)など)について
  ・ 多職種チームによる密で継続的な生活全般に渡る支援
・ 仲間づくり、居場所づくり、就労支援、周囲への支援

薬物療法には効果をみとめるが薬だけでは回復しない。周囲がどのような「まなざし」で接するかにより経過は異なる。害をなすことなく伴走者として回復促進する環境づくりを手伝うことが医師の役目である。

強度行動障害をともなう自閉症の方の長期入院について

強度行動障害をともなう重度の自閉症の、BPSDの激しい認知症の方、症状や生活障害の重度の治療抵抗性の統合失調症の方など現在の福祉制度で支えきれない方が精神科病院に流れ着き、適切で十分な支援が受けられないまま長期に渡り入院し医療現場を圧迫している現状があります。

認知症は進行性の疾患ですから数年と期間も限られ、体力も弱ってきており、また理解も広まり、地域の資源も増えてきており世論と政策の力を感じています。重度の統合失調症の方では同様の問題はありますが、クロザリルなど有効な治療薬も使えるようになり、ACT(Assertive Community Treatment)のようなの動きもでてきています。

一方で、最近、強度行動障害をともなう重度の自閉症の方が入院して、病院では居場所の提供以上のことはできないのですが長期間にわたり保護室などから動けず診療機能の低下をきたすということが増えています。
自閉症者、特に重度の自閉症者は少数ですがその支援は長期にわたって必要であり、他の障害とくらべても支援体制の構築は遅れているように感じています。

自閉症の方の場合、体は大きく行動は激しくなりますが、例えば10歳で1歳、20歳で2歳程度の知能、 社会性、衝動性がずっと続くとイメージしていただければ大変さが想像できるかもしれません。
激しいパニックを繰り返し、窓から飛び降りるなどの自傷や、つきまとったり、殴るなどの他害があったりします。
体も大きく力も強いので大変です。

このような状況ですが、契約中心の自立支援法の制度をめいいっぱい使っても在宅での生活は困難で地域のリソースも限られ、家族のがんばりに相当頼っており、行政による措置は虐待事例が発生するまでありません。

自閉症向きのハードウェアをそなえたショートスティ施設、マンツーマンに近い支援体制があれば重度の方でも家族と地域で暮らせるはずなのですが・・。地域での実務の大半は施設や地域の生活支援員が中心で、強度行動障害支援者養成指導者研修などもありますが質、量ともにまったく足りておりません。

政策的に今後は大規模な施設は作らない方針のようであり、自閉症者の施設でも予算もまわらず人もおらず、疲弊しており、重度の方が地域で困った際には社会資源が他にないとどうしても入院といった形態をとらざるを得ません。
しかし自閉症者向きでないハードとソフト(後述)の精神科医療機関では当事者のためにもならない上に、診療を圧迫し診療機能の低下を招いています。
また長期の入院をみとめない医療制度の中で病院経営を圧迫しています。

自閉症の行動障害に対して医師ができることは、実はあまりなく、少々の投薬と家族や支援員のバックアップくらいです。
精神医療現場は強度行動障害における支援には不向きな環境と思います。
まず静かな個室も少なく空間の構造化の不十分な精神科病院は自閉症の方にとって混乱も多く、入退院も多くドタバタとした急性期病棟ではきまった時間に散歩をするなどの時間の構造化も難しいです。

行政にも責任をもって動いていただきたいところですが、県立こころのケアセンター駒ヶ根や独立行政法人小諸高原病院などの公立病院もあたっておりますが、すでに同様の方が複数いたり、個室が少ないなどの理由でなかなか受け入れてもらえません。

療育の失敗のように言う方もおりますが、私はそれに加え、特別支援学校をでてからの支援の圧倒的な乏しさも課題なのではないかと感じています。

具体的な事例についてはたくさんあげることができますが、まずは地域の福祉および医療現場での苦境を多くの方に知っていただき、予算措置や法整備など政策的な支援を増やしていくことが必要なのではないかと考えています。

「こころの病とは?」、精神医療はどうあるべきか?

平成28年1月22日 大町市福祉センターでの学習会の講義のまとめです

精神疾患・障害とは?


医療である精神科では外因性→内因性→心因性の順番に考えるのが原則。

   ・外因性 (身体疾患や脳の器質的な異常:脳腫瘍、内分泌疾患、脳炎など)  
   ・内因性 (器質的な異常も想定されるが原因は未解明:統合失調症、躁うつ病など)
   ・心因性 (心理的反応の延長で理解可能:適応障害、心因反応など)
      
このなかで統合失調症、気分障害などの内因性精神疾患が精神科の中心領域。

精神障害は見えない障害ゆえに「なまけている」などと思われ本人の苦しみが理解されにくい。
「精神疾患などないのだ。精神医療が諸悪の根源」というような人もいて苦しみは倍増。

代表的な精神疾患。

 ・高次脳機能の障害(記憶、注意、遂行機能、言語・)(脳外傷、低酸素脳症、認知症等)
 ・気分(感情)の障害 (うつ病、双極性障害、気分変調症等)
 ・依存症(物質、プロセス、関係) (アルコール依存症、ギャンブル依存症、摂食障害等)
 ・発達障害(知能、社会性、衝動性)(知的障害、自閉スペクトラム症、注意欠陥多動症等)
 ・心理的ハンディキャップ(情緒障害、愛着障害等)
 ・思考のまとまり(統合)の障害(統合失調症、妄想障害等)
 ・対人関係のパターン(パーソナリティ)など

あらゆる精神疾患に共通なこと。

 感情や思考のコントロールの喪失、優先順位が狂う、選択肢が見えなくなる。
  →拒絶や攻撃など、支援を受けること自体に支援が必要な状態。(ここに専門性)

 人間関係の障害(特にコミュニケーション)、生活障害(日常生活をうまくまわせない)。
  →つながりが断ち切られる。社会から排除され、居場所を失う。(悪循環)
    
 ひきこもり、自死や他害に至る。
 この悪循環を逆に回して良い循環にしていくことがすなわち治療でもある。

その人を疾患、障害、人生の3つの視点から見つつそれぞれにアプローチをする。このバランスが大切。
それぞれが得意な専門職がいる。

◯疾患(病気):
  病因論から見ていく。プロブレム(問題点)をあげ、治療介入していく。
  薬物療法による治療、mECT等 
  (医師、看護師、薬剤師、栄養士等)
◯障害
  本人の機能障害、周囲の環境による活動、社会への参加などが複合的に関連。 
  環境調整、代償方略、リハビリテーション、SSTなど
  ゴールを設定しリハビリテーションを行う。
  (作業療法士、言語聴覚士、看護師等)
◯人生
  本人の価値観、希望、どのような物語をいきて来たか、生きていくのか。
  リカバリー志向の関わり。
  必要な支援をおこなっていく。
 (PSW、臨床心理士等)

社会装置としての精神医療  

医療は福祉の一部、福祉の土台がない医療は無力であり無意味。

精神科に相談すべきタイミング
社会から孤立し死にたくなった時、うまく眠れない時、自分の思考や行動がコントロールできなくなった時、家族や周囲の人がそのような状態の時

「溜め」の少なくなった人の最後の駆け込み寺 (セーフティーネット)
少なくとも一緒に考えてくれる人をまず一人得ることができるはず。

切迫する希死念慮、幻覚妄想状態、躁状態やうつ状態などの場合、精神保健福祉法にのっとり精神保健指定医の診察にもとづき非自発的入院もありうる。
  (医療保護入院、措置入院、医療観察法入院)→人権の一時的な制限も 

有限な医療福祉資源の分配(トリアージ)→誰に支援が必要かを誰が決める?

診断書や精神保健福祉手帳、いわゆる障害者手帳・・。障害年金など・・。
成年後見人など判断能力の判断。
復職など就労能力の判断。

診断(診たて)をもとに多職種、多職域チームで関わり、応援団をつくり、自立とリカバリーを支援する。様々な学問分野、制度、手段、ネットワークを総動員。パスを回す。

当事者のもつ力(ピア・サポート、自助グループ)を引き出し、利用する。

  アルコール依存症(断酒会・AA)や薬物依存症(DARCなど)のセルフヘルプグループ
  最近は摂食障害や統合失調症などでも・・。 
  ひきこもりの子をもつ親の会、発達障害とか精神障害の家族会など・・
  
    さまざまな会をつくったり維持することを専門職としてサポートする
     (サポーテッドピアサポート)

・自立とは?・・スキルを増やすこと、依存先を増やすこと
・リカバリー志向とは?・・病や障害などで失ったものを回復する(人生をとりもどす)こと。
     それに振り回されない。それも含めて自分だと思う。
・物語(ナラティブ)の書き換え・・過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる。
         
        生活の力。人薬(仲間)と時薬。人は人によって傷つき人によって癒される。

個人に対するアプローチ

薬物療法:自助具としてのお薬
精神療法:対話を続ける、物語の書き換え、共同研究方式
リハビリテーション:スキルの獲得、居場所の再獲得

◯まず、つきあうこと。とことんつきあうこと。・・共揺れすることも時に必要。
 大変なケースに一人で関わらない。距離をとるのではなくチームでかかわる。

◯どういう「まなざし」で接するか?
   侵襲的になってはいけない。強み(ストレングス)を活かす。回復を信じて伴走する。
   支援者が限界を決めない。考え、価値観を押し付けない。
 
◯認知・行動・スキルにこだわる 
   生活習慣を整える、対人関係のパターンなど。研究し、練習する。
     (行動分析、認知行動療法、SST(Social Skills Training)

◯本人と本人を取り巻く構造(システム)を分析し、チームで有効な介入を行う。
   多問題のケース。対話を促す。
     (家族療法、対人関係療法、環境調整など)

◯関係者の対話の場を設定し、対話をつづける
   オープンダイアログ(開かれた対話)、結論をあらかじめ決めない、体験を共有。

治療、支援の場面  
・ 訪問(アウトリーチ)・・・体験を共有。関係づくり、生活相談、支援
・ 通院・外来治療(よろず相談+自分の全てを総動員、つきあう。)
・ ディケア、就労支援 (仲間づくり、練習、居場所や役割、リハビリテーション)
・ 入院治療 (一時的な保護、集中的な治療、良質な休養、取り巻く構造の変化)

※フットワーク、チームワーク、ネットワーク

社会に対するアプローチ
 

 目立つ、声の大きい人だけに関わらない。支援をうまく得られないまま自死する人もいる。
  潜在的なニーズ(気付かず型、我慢型)にも目を向ける

  偏見をなくすために、理解と支援を広める、居場所づくり、運動論的展開
    他者の権利を侵害しないかぎり、多様な価値観を認める。
   
    全員参加型の社会。(活躍しなくてもいい)
    弱いつながり(ウィークタイズ)を大切に
  
  生存権、幸福追求権の保障、弱者が声をあげられる条件を整える。
         当事者と専門家、行政の協働

      地域に多様な支援体制、居場所と出番を(医、職、住、遊、友・・)
     弱さを絆に地域をつむぐ。
  
 「あなたは大切な人で生きている価値がある」というメッセージのあふれる世の中に・・。
  苦しい時に苦しいと声をあげられる社会に。その声を拾える社会に・・・。
  ひとりでしない、ひとりにしない。


「ぷれジョブいけだ」 講演会

インサイト


あづみ病院のある池田町でぷれジョブ活動をしている「ぷれジョブいけだ」主催の講演会がありました。

タイトルは「自閉スペクトラム症・発達障がいの人たちの「働く」について考える」

 障がい支援事業所や障害者雇用のコンサルティングとマッチングをおこなっている(株)インサイトの関原深さんのお話でしたが、とても良かったです。

 スーパーアスペルガーは研究職や職人等クリエィティブな分野などで活躍してもらうとして、高機能群、知的障害を伴う群など、それぞれに特性に合わせた仕事を、周囲が限界を決めず、適切な目標設定で、高付加価値領域を目指すというのが基本のようです。
実例も多くプラクティカルでなんだか前向き、特性を面白がり、上から目線でないのがいいですね。

特性を活かすために仕事のプロセスを切り分け、ルチーンづくりを手伝い、仕事をトスする。
指示はポストイットで、OKなら「ありがとう」くらいのシンプルなやり方で上手く行ったケースなど。

職場としては人格ではなく事象に注目し、考え方や価値観ではなく行動を変えてもらうことがポイントのようです。
たくさんある福祉事業所を企画力と支援力で応援し付加価値を高める。

当事者の側としては、その人のキャラなりに愛されて教えてもらい続ける可愛げ、愛嬌をどのように獲得するかですかね。
グローバル競争でローコストがバリューというところはなくなりはしないでしょうが、自閉スペクトラム向きの安心・安全・丁寧といった仕事はまた国内に戻ってくるのではないか?とおっしゃっていました。

障害者をあえて自立させないパラドックスからの脱却を目指す障害者支援の分野は広い意味でのワークシェアリングで、いろんな可能性があり、クリエイティブな分野だと思いました。
悪徳事業所がビジネスとして参入し、制度や障害者を喰い物にし、クリームスキミングを行うことで悪貨が良貨を駆逐してしまうという心配はありますが・・。

Appendix

プロフィール

toipsy

Author:toipsy
地域医療、リハビリ、地域ケアなどを経て、長野県の精神医療分野辺縁に生息。児童思春期青年期、発達支援中心。セルフヘルプ、ピア、地域づくりなどに興味があります。
2013年以前の記事はこちら

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