2017
07.19

PRT 〈Pivotal Response Treatmentの理論と実践〉: 発達障がい児のための新しいABA療育

Category: 未分類

ペアレントトレーニングなどのもとになる考え方であるABA(Applied Behavior Analysis:応用行動分析)の新たな流れであるPRT(Pivotal Response Treatment)について詳しく解説した本。プラクティカルでとても面白かったし具体的なヒントも多い本であった。


日本でASD児へのABAの中でも先鋭的なフリーオペラント形式の療育を行ってきた著者たちが、本家筋のほぼ同じコンセプトの実践であるPRTを紹介するために翻訳した本である。指導には優先順位があり、機軸となる領域(ピボタル領域)があるのではないかという膨大な観察と科学的研究に基づく実践報告と具体的な介入方法が記されている。入院病棟やプレイルームで専門職が絵カードなどを用いた訓練は高頻度に行っても残念ながら投入する労力の割に汎化に乏しく効果が薄いことも多い。PRTでは極端な構造化などの環境設定はほとんど行わなず雑多なもののある日常生活にあるものを利用して”楽しく”、親や保育士、教師、時には同級生などと介入方法を統一して関わる。効果測定をして修正する。モデルとなる模倣対象の多い統合教育をなるべく推進する。注目すべきピボタル領域は、モチベーション、ついで積極的自発性だという。


モチベーションを引き出す方法に関しては①自分で選択、②日常生活内の強化子、③試みる行動を強化する、④維持課題と獲得課題の混ぜ合わせ、⑤課題の多様性 のパッケージで。積極性自発性に関しては質問行動への支援をおこなう。

随時、定型発達との比較、迷信と真実に分けて記載されていてわかりやすい。

その他、問題行動への対処や家族関係の改善、親のストレスの軽減、日常生活での介入とアセスメント、データー集収なども別に章を設けて記載されている。特に親との関係や親のストレスに関しては、家族全体を良い状態にすることも非常に大切であり、ASD児への親の関与が極めて有効に働くのは、親なればこそのエネルギーが秘密兵器として作用しているからということ。親へのフィードバック、情報共有のあり方も具体的で、親にストレスがあるときの子どもたちの積極的なお手伝いは、非常に大きな変化をもたらすなどの記載は秀逸で参考になった。


また、あとがきで役者が自説(くすぐりや逆模倣のアイディアなど)や文化背景の違いなどを考慮した突っ込みをいれまくっていたのが面白かった。

やみくもに介入するのではなく常にレバレッジポイントを意識してシステムズアプローチを行うというのは自分の追求していることでもある。ABAにはアイディア勝負な部分、知的パズルのような側面もあり知的にも面白い。異端のセラピスト奥田健次氏のABAもPRTの流れなのだろうが、施設に通所しての療育やリハビリよりも今後は家庭や学校現場などの生活の場へセラピストが訪問しての療育支援が圧倒的に有効だろうし今後主流になってくるのではないか。

明日を今日より少しでもマシな世界に。




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2017
07.19

子育てにかかわる全ての方へ

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医学書院「総合診療」誌 2017年9月号(特集◆うつより多い「不安」の診方)の「乳幼児健診で発達に問題があるかもしれないと言われて、わたしの育児のやり方が間違っているのではないか、とても心配です」の家庭医と若い母親のやり取りに対する誌上メンタリングの原稿(案)です。 オープンダイアログ、ビレッジアプローチなどの考えを入れています。
①ひとりでしない、ひとりにしない
 受ける側にも余裕が必要ですが、まず相談してくれたお母さんの訴えに真摯に耳を傾け、共感しているところから入っているのはいいですね。助けを求め相談しつつ解決していく力が、こころの健康のために一番大切なことです。この力を身につけるためには相談してよかったという体験を重ねてもらうことが大切で、相談を受けた側もまた「出来ることは助ける、出来ないことは相談する」ということが必要です。支援者の姿は親に、親の姿は子どもにも伝わります。
②ソーシャルサポートの有無と親の病的な不安にも注意
 「子育て、大丈夫かな?」と心配されても、子育てはまだまだ母親任せで、情報的、心理的、実際的なサポートの体制は地域によってまちまちです。継続的に関わり、親子へのサポートの状況を確認して手助けを増やし、余裕と安心感がもてれば不安は軽減していくはずです。それでも不安が強まるようなら病的な不安だったり、他の問題をかかえていたりすることもありますので精神科医もチームに加えてみてください。
③育てにくさに寄り添う子育て支援を
 子どもの育ちは十人十色で多様なもので、本来、多数派か少数派かの違いはあっても正常、異常の区別はありません。ただ感覚過敏などのために情報が多すぎて混乱しやすい子、行動制御に困難を抱えている子、育つペースがゆっくりの子もいます。できるだけ叱らないで、おだやかに言って聞かせる、忍耐強い子育てが大切です。周囲が通常の子育ての方法やペース、環境にこだわると、子どもは苦痛や不安をかかえ、混乱した状態のまま放置されることになります。一般の子育てでも使える構造化やペアトレの方法をアドバイスし、必要なら詳しいアセスメントや支援を得られるよう専門家の助けを求めてみてください。
④社会みんなで育てる
 社会の中で他者の助けをかりつつ生きる力をつけるのを目指すのはどの子であっても同じです。発達の特性は成人になっても残り、福祉的支援が必要になることもありますが、個性や能力として社会の中で上手く活かせることもありますし、困難さに関しても合理的配慮が得られる社会に変わってきています。目先の症状にこだわるよりも二次的な問題を予防することの方が大切です。親がその子をありのままにみて、その子なりの発達をとげられるように、いろんな力を借りながら出来ることで応援していただければと思います。
明日を今日より少しでもマシな世界に。

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2017
07.11

道徳教育は対話をベースに

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生命倫理学のレポートを出せと言うので以前のまとめをやや改変。学校教育現場ではいまだに効果が薄いとされるベル・ランカスター方式の一斉授業が多く、政治的な議論を避けているのは単に時の権力者に都合がいいからだよねと思わざるをえない。不道徳ら連中が推進する道徳教育(安倍首相の写真が何度も出てくる教科書を使って!)なんて笑い話にもならない。

「適法性(コンプライアンス)は最低限のラインであり、ルールになっているものは議論がある程度なされ評価の定まった普遍的なもの。一方、倫理性というのはその上にあり、「僕はこう思う」というのがあり、個人個人、また時代、文化によってことなるもの。倫理に明確な答えはなく、社会の中で対話を繰り返していくしかない。

 知識の伝授では無知に起因するエラーは減らせるかも知れないが、そもそも倫理とはどのように教えられるものなのか?研究不正を予防するための倫理の教育もまた試行錯誤のようであるが、e-ラーニングとディスカッションを組み合わせた授業などは、ベースとなる知識とともにさまざまな視点も得られ、対話の練習にもなるなど効果的だと思った。我が国でも義務教育の学校教育の時期から一方的な道徳の授業を導入するよりも、このような対話をベースとしたアクティブラーニングを推進すべきだろう。

 自分が強すぎて社会常識に気づきにくかったり、心の痛みを感じにくかったりする脳のつくりの人は一定数どうしても存在する。特に研究者を志向する人は、視点や考えがユニークな人も多いだろうが、反面、コミュニケーションは苦手な人も多いかもしれない。閉じたコミュニティにいて、対話がなされない環境だと名誉や地位、金銭的な見返り、ハラスメント、様々なプレッシャーの中で優先順位がくるってしまい暴走してしまうこともありうる。ルールやガイドラインの明確化や、告発窓口やチェック機構を整備するなどシステムとしての解決も推進すべきだろうが、その上で大切なのはオープンな環境でのコミュニケーション、継続的な対話をあたりまえにすることだろう。

 オープン、フラット、シェアがベースのコミュニティをベースに市民とも対話を繰り返す。さまざまな見方、考え方の人のいるオープンなコミュニティの中でダイアローグを密にしていれば、倫理的に問題の大きい研究や研究不正は問題が大きくなる前の小さなうちから芽をつむことができるのだと思う。
 そしてそれは科学の世界のみならず、一般社会においても差別の解消、民主主義、世界の平和にもつながる人類普遍の根本的な考え方だと思う。」

明日は今日より少しでもマシな世界に。


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2017
07.11

歪められた行政。加計問題。一次が万事だと思うよ。

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政治を私物化したあげく嘘やゴマカシで開き直る、いまの政治、行政のあり方が、ちょっとひどすぎるので一言。
結局は国民一人ひとりが賢くなって政治から目をそらさず、それぞれの方法で政治参加しつづけるしかないだろうけどね。

森友、加計問題では国会中には追求から逃げまくっていた与党。
アリバイ的に「行政が歪められた」か否かを問う、閉会中審査が開催された。
安倍首相や加計孝太郎氏をはじめとした関係者がいないんだからそりゃ新しい事実はでてこないだろう。

不透明なところでコソコソやって一部の人達が政治を私物化したというプロセスを問題にしているところに、それを告発した前川氏への個人攻撃に終止する与党議員。
そこしか責めるところがないのだろうけど話のすり替えに必死で滑稽でした。
安倍首相も逃げている中、自民党の鉄砲玉として矢面に立たされた、平井卓也(元自民党ネットサポーターズクラブ代表)議員も、青山繁幸議員、お疲れ様でした。
もう次はないだろうね。

そして参考人としてでてきた加戸守行前愛媛県知事もまたおかしかった。

そもそも「政治が歪められたプロセス」を議論している本筋とは関係ない、四国の産業獣医師不足の悲願と、長年認可をもとめてきたという苦労話を延々としていたけど(そりゃ報道されないのも当たり前だ)、良く聞くとおかしいところばっかり。

あえてその話にのっかるとしても、四国に本当に公務員獣医師、産業獣医師が足りないなら、今わざわざ今治に加計学園の大規模な単科の獣医大学を新設しなくてもより低コストかつ効果的な方策はいくらでもあるだろう。

 まず、奨学金制度や処遇を充実させたりすればいいだろうし、獣医学部の入学定員ではなく、国家資格である獣医師免許の資格のあり方を議論してもいい。
 どうしても四国にも研究、教育機関としての獣医学部が必要というのなら実績もある愛媛大や香川大の農学部などをベースに増設するほうがよほど自然。国策として公務員の産業獣医師がもっと必要というなら、産業獣医大なり、自治獣医大なりをつくるほうが、数も読めるし質も量もコントロールできる。

 加戸さん、途中で話がかわっちゃってたけど世界と勝負できるライフサイエンスを充実させたいというのなら、理学部、農学部、医学部等の他のライフサイエンス系の学部も含めた研究教育費の配分の話しになるだろう。そこで何故、これまでの実績も経験もなく、実力も未知数、というかライフサイエンスっていうのなら今回、同じく獣医学部を新設したいといっていた京産大の案にくらべても圧倒的に期待出来なさそうな加計学園なのか。
それでもどうしてもつくりたければすべて私財を投じてつくってくださいという話です。

 そもそも国公立に比べて学費もかかる私立の大学で募集の時点での地域縛り、産業獣医師、研究職縛りをかけていない時点で、期待したような目的が達成できるともおもえない。国家試験の時点で苦労するだろうし、獣医師資格を得てもペット獣医になる人が多いのではないだろうか・・。

あ、授業の質とか学生の将来とかなんてどうでもよくって、ただたくさん学生さえがあつまればそれでいいのか・・。ビジネスだもんね。

 彼らが獣医学部にこだわるのは、今から地方に新たに大学をつくるとしても、作りやすいグローバル国際環境情報政策福祉学部とかだったら、全入時代の今、よほどの特色がないともはや学生が集まらないからだろう。そりゃよほどじゃないと地方の学生は都会行きたいでしょ。都会の学生もよほどじゃないと地方にはこないよ。
一方で今でも人が集まりやすい医療系だったら教育も許認可も大変そうだけど、獣医学部なら学生も集まりそう、簡単に作れそう、くらいの理由しか無いようにおもえる。

 しまなみバブルでうっかり開発してしまった「塩漬け状態」の土地の精算処分と、地方&国政の政治家とそのお友達の学校屋、土建屋連中に都合がいいだけのスキームを描いていたわけで、この人達は日本国民、今治市民、獣医師、そこで学ぶ学生の人生のことなんてこれっぽっちも考えていないように思えます。

こういった議論をあかるいところでやらないから、加計ありきっていわれるんだよ。

学生はあつまらないだろうなぁ、つくり始めた建物どうするんだろうね・・。
借金だけのこって今治市は夕張市、銚子市のようになるんだろうな・・。そしてそれは日本全体の未来でもある。きっと基地でも、原発でも、中央リニアでも、オリンピックでも似たような構造なんだろう・・。

市民は預けた税金の使いみち、みんなのルールの作成、運用に対してもっと厳しい目を向けならなきゃダメ。

明日は今日より少しでもマシな世界に。


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2017
07.08

ユニバーサルデザインと合理的配慮

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バニラエアの件、乙武さんのイタリアン襲撃事件がデジャヴですね。(私の過去記事
乙武さんも今回の件に関して意見を述べられているようですが。

少数派ゆえに苦労することは不条理に感じることは多いだろうが、障害を持つ子どもたちには援助希求と、どういうことで困っているか、できればどういう助けが必要かを主張できるようにと関わっている身とすると(あとは社会の側の課題)、どういう配慮が必要か、航空会社としてどういうことが出来るか落ち着いた明るい場で対話はできなかったのかなとは思う。
過去の青い芝の会のバス闘争の頃とは違い、いまは障害者差別解消法もできたのだから、窓口や世論、裁判に訴えることもできたはず。

今回の件に関しては本人はあえて航空会社側が求めていた5日前に予約で相談してないわけです。(対話に応じていないとも言える)。意図的であるようだから乙武氏のイタリアンのときと同じサプライズ(奇襲)であす。
その段階で車椅子を理由にお断りされたらそれを社会で問題にすべきだと思うが(差別解消法ができた今となっては裁判となれば負けないだろう)航空会社側にも安全のための緊急時の90秒脱出ルールとかいろいろあるようだし、他の車椅子の方との座席の兼ね合いなど準備も必要だろう。

現場では規則もあるわけだし、準備する余裕もなく対応せざるをえなかった航空会社側も怪我をした場合の責任問題とかいろいろ考えたのだと思う。まあ、その規則が合理的かどうかはともかく現場で決められないなら可能な限り上の判断を仰ぐくらいはしてもよかったかと思うが。

これが例えば人工呼吸器ならどうか、小錦ならどうか、風呂に入らないことがこだわりの精神障害者ならどうかなどと考えるとモヤモヤしてしまうわけです。

もちろんどんな障害がある人でも、いきなり求めて相応の配慮を得られれば理想ですがあらゆる障害に関してあらゆる備えをしておくのは現実問題として合理的ではないと思う。あらゆる場を100%のユニバーサルとするにはコストが無限に必要ですから不可能です。公共空間でのユニバーサルデザインでできるところはやりつくして、どうしても残った部分が個別の合理的配慮ということになるのだと思います。

そして合理的配慮(障害のある方から何らかの配慮を求められた場合、負担になり過ぎない範囲で配慮をする義務がある)とは対話だから。その場その場で判断は代わり、その妥当性については判例を積み重ねるしか無いというのが法律家の見解です。

木島氏は経験豊富でバリアフリーに関するコンサルタントや講演もされてきた方のようですし、相手は新興のLCCなのだから教えてあげて、それで応えてもらえなければはじめて問題にすればよいことだったのではないかと・・。

それでいろいろ批判もでているわけですが、炎上狙いだとしたら成功したんでしょうね。

明日は今日より少しでもマシな世界に。


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2017
07.08

倫理とは何か?いかに身につけるのか?

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社会人大学院で「研究における倫理」の授業だった。学生として1日通しての授業は懐かしい感じ。

あらかじめCITIJapanのe-ラーニングを受けた上での、グループディスカッション。
現時点における基礎的な理解の共通基盤、テクニカルターム、キーワードについての理解がズレているとディスカッションにならないので、こういう教授法はとても良いと思った。

なるほどと思ったのは適法性と倫理性の違い。

適法性(コンプライアンス)は最低限のラインであり、ルールになっているものは議論がある程度なされ評価の定まった普遍的なもの。倫理性というのはその上にあり、「僕はこう思う」というのがあり、個人個人、また時代、文化によってことなるもの。

そこに明確な答えはなく、社会の中で対話を繰り返していくしか無い。

また科学的分野の研究活動自体、善意(嘘をつかない、不正はしない)ということに基づいているためはっきりいって不正を防止する方法はない。
研究結果はオープンなコミュニティの中でのピアレビューや追試などによる再現性などで評価検証されるが、事後措置としての不正行為に関しての監視はやりきれず、不正行為が増えると防止策や監視のためのコストもかかってしまい科学に対する信頼性も揺らぐ事態になる。

こういった事態の予防のための教育を研究者の卵のうちからしようという話になり、このような授業もあるわけだが、これもまた試行錯誤のようである。無知のための故意でないエラーは減らせるかも知れないが、そもそも倫理とはどのように教えられるものなのか?

グループワークでは小保方氏らのSTAP細胞の事件を彷彿させる、「ばれなきゃOK」という小さな研究不正(捏造、改ざん、盗窃など)が積み重なり、データの捏造という不正が発覚し大事になり、研究者が自殺に至るようなシナリオについて話し合ったりした。

どうして、このようなことがおこるのか?

研究者になる人は、視点や考えがユニークな人も多いだろうが、コミュニケーションが苦手な人も多いかもしれない。閉じたコミュニティにいて、対話がなされない環境だと名誉や地位、金銭的な見返り、ハラスメント、様々なプレッシャーの中で優先順位がくるってしまい暴走してしまうのだろう。

どのような対策ができるのだろうか?そして過ちに気づいた時に度のタイミングでどのようにリカバリーできるのか?


一定数、平均的な見方に気づきにくかったり、心の痛みを感じにくい脳のつくりの人はどうしても存在する。特に研究者を志向する人にはこういう人も多いかもしれない。告発窓口やチェック機構など、システムとしての解決も図られるべきだが、結局、ここでも大切なのはオープンな環境でのコミュニケーション、対話なのだろうということ。

さまざまな見方、考え方の人のいるオープンなコミュニティ(ひろくは一般市民を含めた社会全体)の中でダイアローグを密にしていれば、倫理的に問題の大きい研究や研究不正は問題が大きくなる前の小さなうちから芽をつむことができる。

やっぱりここでも「ひとりにしない、ひとりでしない」ことだろう。

ふと、考えたのはこの国の政治体制である。

言葉が乱れ、嘘や不正がまかり通り、対話が成り立たない権力者が、情報を秘匿し、過ちを指摘されても「指摘はまったく当たらない。問題ない。どうだっていいじゃん、そんなこと」と開き直って居座っているこの国の政治のあり方には不安をいだかざるをえない。

選挙を通じて国民の代表として厳正に選ばれた人たちのはずだが、何故か最低限の言葉や倫理性も通じない人たちが権力の中枢に居座って政治を私物化している状況が悪化している。これは国民にとっても政治家にとっても不幸なことであろう。

その結果、倫理性どころか適法性のレベル(憲法尊守など)で疑惑が次から次へとあふれでており情報統制や強権をもってしてももはや糊塗しきれなくなくなってきている。

知名度を売って勢いに乗った政党の公認を受けて当選し、党議拘束に従って投票する簡単なお仕事になりさがってしまっている政治家には、現時点での近代国家の民主主義の到達点の最低限の土台や言葉を学ぶe-ラーニング(特に人権、憲法に関してなど)で学んでもらうことも必要かもしれない。

そして国民全体が賢くなり、社会における対話の総量を増やし、発言、行動していくことが必要なのだろう。

明日は今日より少しでもマシな世界に。


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2017
07.04

ひとりでしない、ひとりにしない

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自閉症で行動障害がでて手がつけられなくなった方のパターンとして、特別支援学校などで熱心だがスキルに欠ける先生が、素と素で関わりすぎ本人の要求に応えすぎて属人的な対応になり、先生の移動や本人の卒業などでその関わりができなくなった時に本人が混乱してというパターンが多い気がする。

ひどい場合はその先生がお休みのときは対応できる人がいないので休んでくださいといわれたとか・・。大変なケースほど、ひとりでしない、ひとりにしないで、関わり方を統一しつつ多くの人がかかわり手がかりを人からシステムに移して構造化をすすめていくのがセオリーであろう。

 もっともこれは支配性の裏返しと言うか、親や支援者にもあるパターンではある。他に支援がないというのもあるだろうが、何事も一人で頑張っちゃったらいけない。佐久の若月俊一先生や、夕張の村上智彦先生もよくおっしゃっていた事ですが、 地域医療におけるスーパードクターも同じ事。

「ひとりでしない、ひとりにしない」「できることは助ける、できないことは相談する」
これをみんなが自然にこれができる社会ならどれだけ生きやすい社会になることだろう。

明日を今日よりも少しでもマシな社会に。


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