2017
07.08

ユニバーサルデザインと合理的配慮

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バニラエアの件、乙武さんのイタリアン襲撃事件がデジャヴですね。(私の過去記事
乙武さんも今回の件に関して意見を述べられているようですが。

少数派ゆえに苦労することは不条理に感じることは多いだろうが、障害を持つ子どもたちには援助希求と、どういうことで困っているか、できればどういう助けが必要かを主張できるようにと関わっている身とすると(あとは社会の側の課題)、どういう配慮が必要か、航空会社としてどういうことが出来るか落ち着いた明るい場で対話はできなかったのかなとは思う。
過去の青い芝の会のバス闘争の頃とは違い、いまは障害者差別解消法もできたのだから、窓口や世論、裁判に訴えることもできたはず。

今回の件に関しては本人はあえて航空会社側が求めていた5日前に予約で相談してないわけです。(対話に応じていないとも言える)。意図的であるようだから乙武氏のイタリアンのときと同じサプライズ(奇襲)であす。
その段階で車椅子を理由にお断りされたらそれを社会で問題にすべきだと思うが(差別解消法ができた今となっては裁判となれば負けないだろう)航空会社側にも安全のための緊急時の90秒脱出ルールとかいろいろあるようだし、他の車椅子の方との座席の兼ね合いなど準備も必要だろう。

現場では規則もあるわけだし、準備する余裕もなく対応せざるをえなかった航空会社側も怪我をした場合の責任問題とかいろいろ考えたのだと思う。まあ、その規則が合理的かどうかはともかく現場で決められないなら可能な限り上の判断を仰ぐくらいはしてもよかったかと思うが。

これが例えば人工呼吸器ならどうか、小錦ならどうか、風呂に入らないことがこだわりの精神障害者ならどうかなどと考えるとモヤモヤしてしまうわけです。

もちろんどんな障害がある人でも、いきなり求めて相応の配慮を得られれば理想ですがあらゆる障害に関してあらゆる備えをしておくのは現実問題として合理的ではないと思う。あらゆる場を100%のユニバーサルとするにはコストが無限に必要ですから不可能です。公共空間でのユニバーサルデザインでできるところはやりつくして、どうしても残った部分が個別の合理的配慮ということになるのだと思います。

そして合理的配慮(障害のある方から何らかの配慮を求められた場合、負担になり過ぎない範囲で配慮をする義務がある)とは対話だから。その場その場で判断は代わり、その妥当性については判例を積み重ねるしか無いというのが法律家の見解です。

木島氏は経験豊富でバリアフリーに関するコンサルタントや講演もされてきた方のようですし、相手は新興のLCCなのだから教えてあげて、それで応えてもらえなければはじめて問題にすればよいことだったのではないかと・・。

それでいろいろ批判もでているわけですが、炎上狙いだとしたら成功したんでしょうね。

明日は今日より少しでもマシな世界に。


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2017
07.08

倫理とは何か?いかに身につけるのか?

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社会人大学院で「研究における倫理」の授業だった。学生として1日通しての授業は懐かしい感じ。

あらかじめCITIJapanのe-ラーニングを受けた上での、グループディスカッション。
現時点における基礎的な理解の共通基盤、テクニカルターム、キーワードについての理解がズレているとディスカッションにならないので、こういう教授法はとても良いと思った。

なるほどと思ったのは適法性と倫理性の違い。

適法性(コンプライアンス)は最低限のラインであり、ルールになっているものは議論がある程度なされ評価の定まった普遍的なもの。倫理性というのはその上にあり、「僕はこう思う」というのがあり、個人個人、また時代、文化によってことなるもの。

そこに明確な答えはなく、社会の中で対話を繰り返していくしか無い。

また科学的分野の研究活動自体、善意(嘘をつかない、不正はしない)ということに基づいているためはっきりいって不正を防止する方法はない。
研究結果はオープンなコミュニティの中でのピアレビューや追試などによる再現性などで評価検証されるが、事後措置としての不正行為に関しての監視はやりきれず、不正行為が増えると防止策や監視のためのコストもかかってしまい科学に対する信頼性も揺らぐ事態になる。

こういった事態の予防のための教育を研究者の卵のうちからしようという話になり、このような授業もあるわけだが、これもまた試行錯誤のようである。無知のための故意でないエラーは減らせるかも知れないが、そもそも倫理とはどのように教えられるものなのか?

グループワークでは小保方氏らのSTAP細胞の事件を彷彿させる、「ばれなきゃOK」という小さな研究不正(捏造、改ざん、盗窃など)が積み重なり、データの捏造という不正が発覚し大事になり、研究者が自殺に至るようなシナリオについて話し合ったりした。

どうして、このようなことがおこるのか?

研究者になる人は、視点や考えがユニークな人も多いだろうが、コミュニケーションが苦手な人も多いかもしれない。閉じたコミュニティにいて、対話がなされない環境だと名誉や地位、金銭的な見返り、ハラスメント、様々なプレッシャーの中で優先順位がくるってしまい暴走してしまうのだろう。

どのような対策ができるのだろうか?そして過ちに気づいた時に度のタイミングでどのようにリカバリーできるのか?


一定数、平均的な見方に気づきにくかったり、心の痛みを感じにくい脳のつくりの人はどうしても存在する。特に研究者を志向する人にはこういう人も多いかもしれない。告発窓口やチェック機構など、システムとしての解決も図られるべきだが、結局、ここでも大切なのはオープンな環境でのコミュニケーション、対話なのだろうということ。

さまざまな見方、考え方の人のいるオープンなコミュニティ(ひろくは一般市民を含めた社会全体)の中でダイアローグを密にしていれば、倫理的に問題の大きい研究や研究不正は問題が大きくなる前の小さなうちから芽をつむことができる。

やっぱりここでも「ひとりにしない、ひとりでしない」ことだろう。

ふと、考えたのはこの国の政治体制である。

言葉が乱れ、嘘や不正がまかり通り、対話が成り立たない権力者が、情報を秘匿し、過ちを指摘されても「指摘はまったく当たらない。問題ない。どうだっていいじゃん、そんなこと」と開き直って居座っているこの国の政治のあり方には不安をいだかざるをえない。

選挙を通じて国民の代表として厳正に選ばれた人たちのはずだが、何故か最低限の言葉や倫理性も通じない人たちが権力の中枢に居座って政治を私物化している状況が悪化している。これは国民にとっても政治家にとっても不幸なことであろう。

その結果、倫理性どころか適法性のレベル(憲法尊守など)で疑惑が次から次へとあふれでており情報統制や強権をもってしてももはや糊塗しきれなくなくなってきている。

知名度を売って勢いに乗った政党の公認を受けて当選し、党議拘束に従って投票する簡単なお仕事になりさがってしまっている政治家には、現時点での近代国家の民主主義の到達点の最低限の土台や言葉を学ぶe-ラーニング(特に人権、憲法に関してなど)で学んでもらうことも必要かもしれない。

そして国民全体が賢くなり、社会における対話の総量を増やし、発言、行動していくことが必要なのだろう。

明日は今日より少しでもマシな世界に。


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